商品名 | 第49回重要刀剣 平信秀於大坂(薙刀) | ||
銘 | 平信秀於大坂 元治二年正月日 | 作者 | 平信秀 |
時代 | 江戸時代末期 | 伝来 | |
指定 | 平成15年10月9日 | 鑑定書 | 重要刀剣 |
価格 |
刃長 | 70.25㎝ | 反り | 2.0㎝ |
元幅 | 3.2㎝ | 元重 | |
先幅 | 鋒長 | ||
茎長 | 70.45㎝ | 茎反り | なし |
形状 | 薙刀造、庵棟、身幅広く、寸が延び、重ね尋常、反りやや深くつく。 |
鍛
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板目に杢交じり、総じて肌立ちごころとなり、棟寄りは流れ、地沸厚くつき、地景細かに入る。 |
刃文 | 互の目乱れに小互の目・角ばる刃・丁子ごころの刃・尖り刃など多種の刃が交じり、足入り、沸よくつき、金筋・砂流し長くかかり、湯走り状の飛焼を交え、匂口が明るい。 |
帽子 | 乱れ込み、先尖りごころに掃きかけて長く返る。 |
彫物 | |
茎 | 生ぶ、先栗尻、鑢目第一目釘穴の下5.3㎝強辺を境に、(上半)浅い勝手下がり・(下半)鏟鋤、目釘穴二、佩表目釘穴の上棟寄りに、細鏨やや大振りの「平信秀」銘と、その下に「於大阪」の駐鎚地名があり、裏に同じく細鏨の年紀がある。 |
説明 | 栗原信秀は、文化12年、越後国西蒲原郡月潟村に生まれた。 京都に上り鏡師となったが、嘉永初年江戸に出て、清麿門に入り刀鍜治となった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは、嘉永5年紀であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われる。独立して間もない嘉永6年には、相模国浦賀で作刀した、いわゆる「浦賀打」が遺存する。元治元年7月、第一回長州征伐が行われ、彼は幕命を受け大坂に赴き、兵器補給の役を務めている。 大坂での作刀は、元治元年8月より慶応3年正月までの約2年半に亘っている。慶応元年5月、筑前守を受領した。後に江戸に戻り、さらに明治8年、越後三条に帰り、同10年には弥彦神社の御神鏡の製作を行っている。明治13年1月25日、東京本郷元町の養子信親宅に於いて、66才で没している。 彼の技倆は清麿一門中最も卓越しており、師清麿に迫る出来映えのものがある。この薙刀は、板目に杢・流れ肌が交じって、総じて肌立ちごころとなった鍛えに、地景が細かに入るリ、刃文は互の目乱れに小互の目・角ばる刃・丁子ごころの刃尖り刃が交じり、沸がよくつき、金筋・砂流しが長くかかるなどの出来口をあらわしている。 同作には僅少な薙刀の作例であり、刃文は焼巾に高低があり、しかも大小様々な刃をあしらって変化に富んでおり、匂口が明るい状を見せている。地刃共に健体で、華やかな作柄を示して出来がよい。 本作の元治二年紀は、信秀の大坂打ちとしては早い時期にあたり、同年の4月7日に慶応へ改元されているところから、元治年紀の作例は希少である。特に、元治二年紀は、この作と「平信秀・元治二年二月日」と銘した刀の二口を経眼するのみである。同工としては制作の稀な薙刀の作例に加えて、駐鎚地及び年紀も資料的に頗る貴重である。 |