重要刀剣 固山宗次作 (長巻)

商品名 第24回重要刀剣 固山宗次作 (長巻)
固山宗次作 天保14癸卯年5月日(長巻) 作者 固山宗次
時代 江戸時代末期 伝来
指定 昭和51年7月10日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 63.4㎝ 反り 2.0㎝
元幅 2.9㎝ 元重
先幅 鋒長
茎長 56.0㎝ 茎反り なし
形状 薙刀造、庵棟、頭差まで張らず反りつく。
小板目肌、細かによくつみ、地沸つく。
刃文 丁子に互の目交じり、足長くよく入り、匂出来となる。
帽子 乱れ込んで先尖って返る。
彫物
生ぶ、先入山形、鑢目筋違、化粧つく、目釘穴二、表目釘穴の上中央に五字銘があり、裏に同じく年紀がある。
説明 固山宗次は享和三年奥州白河の産で、俗名を宗兵衛といい、兄に宗平がいる。加藤綱秀の門に師事したといわれ、はじめ白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封後は住して桑名の藩工として作刀した。その居住地ははじめ麻布永坂、のち四谷左門町という。文政頃より作品があり、弘化2年備前介を受領し、その作風は備前伝に終始して上手である。本作は宗次作中では珍しい薙刀であり、頭がさまで張らないで姿がよく、得意の備前伝に彼の本領が示されている。

重要刀剣 江州住人佐々木善四郎源一峯 以南蛮鉄造之

商品名 第32回重要刀剣 江州住人佐々木善四郎源一峯 以南蛮鉄造之
江州住人佐々木善四郎源一峯 以南蛮鉄造之 作者 佐々木善四郎源一峯
時代 江戸時代前期 伝来
指定 昭和60年10月30日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 69.8㎝ 反り 2.2㎝
元幅 3.25㎝ 元重
先幅 2.2㎝ 鋒長 2.2㎝
茎長 19.4㎝ 茎反り 僅か
形状 鎬造、庵棟、身幅が広く、鎬巾広く、鎬高目、反り深くつき、中鋒。
小板目肌つみ、やや流れ肌交じり、細かに地沸つき、乱れ映り立つ。
刃文 短い直ぐの焼出しがあり、その上は丁字乱れに大丁子・小丁子・互の目など交じり華やかとなり、足・葉頻りに入り、匂勝ち小沸つき、細かに砂流しかかる。
帽子 直ぐごころに小丸、先掃きかけ、深く返る。
彫物
生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違に化粧つく、目釘穴一、指表棟寄りに細鏨やや大振りの長銘があり、裏目釘穴の下棟寄りに同じく「南蛮鉄」の添銘がある。
説明 一峯は、通説に近江石堂派の刀工で、初・二代があり、その活躍期は初代が寛永頃、二代が天和頃とされている。そして初代が二字銘で隷書風であるのに対して、二代は「佐々木善四郎」と俗名を刻し、さらに本刀に見るように「以南蛮鉄造之」と添銘したものがある。作風は、初・二代ともに相似るものであるが、殊に二代には、小のたれに互の目がまじり、沸が強くつき、砂流しがさかんにかかったものが多く見られる。この刀は、右の如く二代善四郎一峯の作であるが、このような丁子乱れのものは珍しく、しかも彼の丁子乱れの作柄の中でも華やかで、出来が優れている。なお、同作には焼出しがあり、帽子の返りも深い点などから、紀州石堂の出来口に相通じるものがあり同派との関係も窺い得るが、確証がなく今後の研究に俟つところである。

重要刀剣 美濃国藤原永貞

商品名 第39回重要刀剣 美濃国藤原永貞
美濃国藤原永貞
佐藤義問所持
元治元甲子年五月於東都作之
作者 美濃国藤原永貞
時代 江戸時代末期 伝来
指定 平成5年11月5日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 72.4㎝ 反り 1.4㎝
元幅 3.25㎝ 元重
先幅 2.4㎝ 鋒長 4.1㎝
茎長 23.2㎝ 茎反り 僅か
形状 鎬造、三ッ棟、身幅広く、重ね厚く、反り浅くつき、中鋒やや延びごころ。
小板目肌つみ、地沸厚くつき、地景細かにいる。
刃文 互の目乱れに大互の目・頭の丸い互の目・尖りごころの刃などが交じり、華やかに乱れ、足・葉さかんに入り、匂深く、沸よくつき、やや荒目の沸を交え、砂流しかかり、金筋入り、物打辺僅かに棟を焼き、匂口が明るい。
帽子 横手を焼き込んでのたれ込み、丸く深く返り、先掃きかけ、表沸くずれる。
彫物
生ぶ、先刃上がりごころの栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘穴一、指表目釘穴の下棟寄りに、大振りの長銘があり、裏に同じく年紀とその下に「於東都」の駐鎚地銘があり、その横平地に大振りの所持者銘がある。
説明 永貞は、本名を松井治一郎と称し、文化6年、美濃国不破郡(現在の岐阜県垂井町表佐一色四番屋敷)に松井直三郎の子として生まれた。彼は、一時、紀州徳川家の御用鍜治として紀州に移住したと伝えられ、また、万延元年頃には伊勢国田丸に於いても鍛刀した。その後文久2年頃、江戸青山に住して作刀し、明治2年、60才で没したといわれる。なお、普段の銘文に見られる「御勝山麓」といったものと思われる。
この刀は、身幅が広く、重ね厚で、反りが浅く、中鋒が延びごころとなった、ガッチリとした豪壮な造込みを見せており、新々刀の特徴的な姿恰好を呈しているが、とりわけ本作のように三ッ棟の多いところにこの工の特色が示されている。刃文は互の目乱れに大互の目・頭の丸い互の目・尖りごころの刃などが交じり、足・葉がさかんに入り、匂深く、沸がよくつき、荒目の沸を交え、金筋・砂流しかかるなど、清麿一門に見紛う作柄をあらわしている。担し、刃中に、清麿一門によく見受けられる丁子がかった刃や角ばる互の目などは見られず、むしろ大互の目や頭の丸い互の目等が目立ち、帽子も先が丸く返っているところなどに、清麿一門とは異なった同工の見どころが窺われる。同作中でも華やかな作域を示した出色の一口で匂深くで、沸がむらなくよくついて、匂口が明るい点が特筆され、加うるに地刃ともに健全であることも好ましい。

重要刀剣 平信秀於大坂(薙刀)

商品名 第49回重要刀剣 平信秀於大坂(薙刀)
平信秀於大坂 元治二年正月日 作者 平信秀
時代 江戸時代末期 伝来
指定 平成15年10月9日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 70.25㎝ 反り 2.0㎝
元幅 3.2㎝ 元重
先幅 鋒長
茎長 70.45㎝ 茎反り なし
形状 薙刀造、庵棟、身幅広く、寸が延び、重ね尋常、反りやや深くつく。
板目に杢交じり、総じて肌立ちごころとなり、棟寄りは流れ、地沸厚くつき、地景細かに入る。
刃文 互の目乱れに小互の目・角ばる刃・丁子ごころの刃・尖り刃など多種の刃が交じり、足入り、沸よくつき、金筋・砂流し長くかかり、湯走り状の飛焼を交え、匂口が明るい。
帽子 乱れ込み、先尖りごころに掃きかけて長く返る。
彫物
生ぶ、先栗尻、鑢目第一目釘穴の下5.3㎝強辺を境に、(上半)浅い勝手下がり・(下半)鏟鋤、目釘穴二、佩表目釘穴の上棟寄りに、細鏨やや大振りの「平信秀」銘と、その下に「於大阪」の駐鎚地名があり、裏に同じく細鏨の年紀がある。
説明 栗原信秀は、文化12年、越後国西蒲原郡月潟村に生まれた。
京都に上り鏡師となったが、嘉永初年江戸に出て、清麿門に入り刀鍜治となった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは、嘉永5年紀であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われる。独立して間もない嘉永6年には、相模国浦賀で作刀した、いわゆる「浦賀打」が遺存する。元治元年7月、第一回長州征伐が行われ、彼は幕命を受け大坂に赴き、兵器補給の役を務めている。
大坂での作刀は、元治元年8月より慶応3年正月までの約2年半に亘っている。慶応元年5月、筑前守を受領した。後に江戸に戻り、さらに明治8年、越後三条に帰り、同10年には弥彦神社の御神鏡の製作を行っている。明治13年1月25日、東京本郷元町の養子信親宅に於いて、66才で没している。
彼の技倆は清麿一門中最も卓越しており、師清麿に迫る出来映えのものがある。この薙刀は、板目に杢・流れ肌が交じって、総じて肌立ちごころとなった鍛えに、地景が細かに入るリ、刃文は互の目乱れに小互の目・角ばる刃・丁子ごころの刃尖り刃が交じり、沸がよくつき、金筋・砂流しが長くかかるなどの出来口をあらわしている。
同作には僅少な薙刀の作例であり、刃文は焼巾に高低があり、しかも大小様々な刃をあしらって変化に富んでおり、匂口が明るい状を見せている。地刃共に健体で、華やかな作柄を示して出来がよい。
本作の元治二年紀は、信秀の大坂打ちとしては早い時期にあたり、同年の4月7日に慶応へ改元されているところから、元治年紀の作例は希少である。特に、元治二年紀は、この作と「平信秀・元治二年二月日」と銘した刀の二口を経眼するのみである。同工としては制作の稀な薙刀の作例に加えて、駐鎚地及び年紀も資料的に頗る貴重である。

重要刀剣 石堂運寿是一

商品名 第13回重要刀剣 石堂運寿是一
藤原是一精鍛 文久2年8月日 作者 石堂運寿是一
時代 江戸末期 伝来
指定 昭和40年3月10日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 2尺3寸2分強(70.3㎝) 反り 5分2厘(1.58㎝)
元幅 1寸2厘(3.1㎝) 元重
先幅 7分2厘(2.2㎝) 鋒長 1寸2分半(3.79㎝)
茎長 7寸3分(22.1㎝) 茎反り 僅か
形状 鎬造、庵棟、反り浅く中鋒。
板目殆んど柾がかり、地沸つき、地景入る。
刃文 互の目に丁子交じり、足・葉入り、匂深く小沸よくつき、処々に砂流しかかる。
帽子 のたれ込み、先小丸に返る。
彫物
生ぶ、栗尻、鑢目大筋違、化粧鑢つき、目釘穴一、表中程に作者銘、裏棟寄りに年紀がある。
説明 石堂運寿是一は、羽前米沢の藩工である加藤長運齋綱俊の甥で、通称を政太郎といい、後、石堂家の七代目を継いで是一と称した。備前伝、相州伝を得意として上手である。明治24年、75才で没した。
この刀は文久2年、彼の45才の作で得意とした備前伝を焼いた傑出の一口であり、地、刃の冴えも見事である。

重要刀剣 左行秀

商品名 第21回重要刀剣 左行秀
於土州五台山呑海亭辺左行秀造之 安政6年8月吉日 作者 左 行秀
時代 江戸時代末期 伝来
指定 昭和48年3月1日 鑑定書 重要刀剣
価格
刃長 71.0㎝ 反り 1.3㎝
元幅 3.4㎝ 元重
先幅 2.7㎝ 鋒長 7.3㎝
茎長 22.8㎝ 茎反り 0.2㎝
形状 鎬造、三ッ棟、身幅広く、元先の差少なく、重ねをおろし、反り浅く、大鋒。
板目、流れて柾肌となり、地沸つく。
刃文 直刃調にのたれ、匂い深く、沸つき、砂流しかかり、匂口明るい。
帽子 乱れ込んで小丸に返る。
彫物
生ぶ、先栗尻、鑢目化粧鑢をかけ、やや荒い筋違、目釘穴一、佩表に太鏨大振りの作刀地入りの長銘。裏に年紀がある。
説明 左行秀は豊永久兵衛といい、自ら筑前左文字の末孫と称し、天保初年頃江戸に出て細川正義門の清水久義に学び、出藍の誉れが高く後土佐藩士となった。作風は初期は細川流の備前伝で、匂口の締まった丁子乱があるが、後にはいわゆる相州伝に転じている。姿が如何にも豪壮で、地かねがよく、刃文は直刃調にのたれを交え匂深く小沸がよくつき、砂流し、金筋かかり、匂口が明るく、大阪の真改に私淑したものと思われる。この刀は行秀の本領を発揮して出来よろしく、五台山呑海亭は山内家別墅であり、彼が藩工の誇りを以て造った一世一代の作である。附属の打刀拵も当時のもので、終戦後まで山内家に伝来したもので、茶色塗刻鞘の打刀拵も立派である。